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 日時: 2006年7月29日(土) 14時~17時
 会場: 京都教育大学「藤森キャンパス」
  〒612-8522 京都市伏見区深草藤森町1

テーマ: 韓国地方都市の景観と構造

韓国地方都市における近世的景観の保存と復原
轟 博志 (立命館アジア太平洋大学)
韓国地方都市における「旧市街地」と「新市街地」
山元貴継(中部大学)


韓国地方都市における近世的景観の保存と復原
轟 博志 (立命館アジア太平洋大学)

 中央集権国家においては、地方の統治拠点において中央の権威を再現させる必要があった。古代ローマのコロニー然り、古代日本の国衙や国分寺も然りである。近世の朝鮮半島を支配していた李氏朝鮮王朝も同様であり、地方の行政拠点である「邑治」には、中央の権威を代表する画一的な自然・人文景観が形成された。現代の地方都市も「邑治」に起源を置くものが圧倒的に多い。
 「邑治」の景観アイデンティティを構成した要素は何か、それが日本の統治を通じてどのように変貌し、現代の地方都市に何が伝えられたのだろうか。本稿では、韓国東南部の慶尚道の事例を扱いながら、考えてみることにした。
1)「旧邑都市」の定義
 李氏朝鮮時代の韓国はごく初期を除いて、近世フランスの絶対王政のような強い中央集権体制を敷いていた。古代・統一新羅の時代から代々地方を統治してきた豪族は、高麗時代を通じて中央の統治機構に完全に組み込まれ、さらに李氏朝鮮王朝においてその実権は完全に剥奪された。
 李朝の地方統治は広域行政体としての「道」と、その下位に属する「邑」の二段階をなしていた。邑には領内の生産力、歴史的経緯、有力者の有無などにより序列(邑格)があり、またその序列は王朝の判断で時折昇降した。大きく分けると、上位から順に「府」「牧」「郡」「県」があり、それぞれ派遣される長官の職階も異なっていた。邑はほぼ現在の郡に相当する領域を持っていたが、その行政的な中心地を邑治と呼び、邑治を含む集落を邑集落と呼ぶ。
 「旧邑都市」とは、現在も集落として残存しているかつての邑治の所在地を指す。ある所は広域市の中心地に発展し、またある所は一介の農業集落に転落した場合もあり、現在では集落の規模や機能に大きな差がついている。地理学において「旧邑」という用語が使われたのは、李錫が最初であると思われる。李は特に、現代において行政中心地としての役割を喪失した邑治にのみ焦点をあてている。しかし本研究では、現在も行政中心地として機能している邑治を包含することとし、それらも広義の「旧邑都市」と定義することとする。
 邑治は地域行政の中心地として、一定の集落規模を持っていた。ただし後述するような立地上の制約から、それは必ずしも地域経済活動の中心地とはなりえず、そのための集落は別途に存在する場合が多々あった。
2)地形上の立地による「旧邑都市」の分類
 A. 平地邑:全くの平地上に立地する邑治をさす。一般に四方からの陸上交通が発達し、また水上交通とも結節する場合が多い。そのため行政の中心地であると同時に、地域の経済及び物流の中心地となり、現代に至るまでその中心性を維持している邑治を多く見かける。他の類型に比べて集落の規模が大きくなる傾向にある。周囲が平地である以上、風水地理説とは関係なしに立地したわけであるが、近世に入って風水的な談論を付加し、形式上は風水的な立地として、地誌などに紹介される。慶尚道では、慶州、尚州、星州、義城、大邱、固城などが該当する。
 B.平山邑:集落自体はほぼ平地上に展開しているが、集落の一部が山地と接している邑治をさす。数的には、慶尚道でも全国でも最も多い類型である。風水地理説に基づいた立地選択をした邑治の場合、必然的にこの類型になる。風水上の吉地であるためには、集落の「背後」に当たる方向に山地が存在することが最低条件となるからだ。そのため、多くの平山邑は「風水指向型立地」と言い換えることが出来る。風水地理説においては、集落の北側に主山を置き、主山からの山並みが集落の東西を包み込む形態を吉とする。その場合、周辺部との間に地形的な障害が生じてしまい、交通路の設定などに難が生じる。便利さよりも、風水という地理思想に適合するかが、立地選定の上で重要視された類型といえよう。慶尚道では、聞慶、竜宮、栄川、安東、比安、義興、東莱のほか、半数以上がこの類型に当てはまる。
 C.丘陵邑:小高い丘の上に立地し、周囲の平地と一定の高低差を保つことにより、防衛機能を強化した形態。丘陵の大きさにもよるが、平地邑や平山邑と比べ、集落の規模が小ぶりである。多くの場合城壁を持ち、丘陵地形と併せて防衛機能を補っている。場合によっては、丘陵上には官衙のみ存在し、一般の集落は城壁の外側や丘陵の下に立地するという、日本の城下町のような形態を持つものもある。慶尚道では、寧海、清河、機張、熊川などがこれに該当し、後述するが海岸部に立地が集中している。
 D.山地邑:山の頂上やそれに近い位置に立地し、通常城砦に囲まれている。いわゆる山城である。山城自体は、古代より朝鮮全土にわたって分布していた。その中で、郡県単位の行政機能までが山城の中に立地する場合はそう多くない。李氏朝鮮末期においては、長耆邑の一箇所のみである。長耆においても実際の経済機能を担う集落は麓に発達し、山城の中には空き地も多かった。このような現象は、慶尚道以外の山地邑でも見られる。
 この他、海岸線に近接した立地を見せる邑治を海邑、海岸線から離れて立地しているものを内陸邑とする分類方法もある。海から絶えず外国勢力が侵入した朝鮮においては、経済的・文化的に繁栄した邑治は主に内陸邑であり、海邑は防衛を主眼とした小規模のものが多かった。
 3)成立時期による「旧邑都市」の分類
 上記の1)で見た立地の類型は、時代別にその出現の度合いに大きく差異がある。たとえば平地邑の一部は、古代の王国の王都であったり、小京などと呼ばれる地方行政の中心地であった場所と一致する。尚州邑は三国時代初期には沙伐国の王都であり、6世紀までに新羅に征服された後は尚州と名を変え、慶尚道北西部と忠清道南東部の広い範囲を管轄下に置く、重要な地域拠点となった。慶州は新羅の首都であったし、義城は召文国、星州は星山伽耶国、固城は小伽耶の王都であった。
 古代都市の立地は風水と関連がなく、肥沃な平野部の中心地に立地する場合が多かった。そのため、現在まで立地の移動がない場合、平地邑である場合が多い。もちろん、古代型邑治の中でも、善山のように風水上の吉地を求めて移動した例もあり、興海や鎮海、大邱のように古代都市でなくても平地邑は存在する。
 中世・高麗王朝の時代は、モンゴルの侵略や倭寇、東海岸への女真族の来襲など、海からの外勢の侵入が相次いだ。その関係で、この時期には海邑において、防御能力を強化する動きが相次いだ。東海岸の邑治では、11世紀前後にこぞって築城をしたり、土城を石城に補強したりしている。また、清河や長耆のように、平地城だったものが丘陵や山地に移転して、要塞化したところもある。盈のように城郭の規模を縮小して官衙のみを囲むように改修したところもある。要するに、現実に頻発している戦闘行為に即応できる構造や立地に改編せざるを得ないほど、この頃の外勢侵入は激しかった。極端な例としては、度重なる倭寇の侵入によって、邑治をはるか内陸の居昌に移した巨済の例がある。
 高麗末期から李氏朝鮮時代にかけて、かねてから普及していた風水地理思想が、集落の立地選定に大きな影響力を及ぼすようになっていった。この時期に新設された邑治、移転した邑治、部曲や属県などの従属的な地位から独立し、行政機能が整備された邑治などの立地は、ほとんどが風水の形局を基準として選定された。
 李朝時代に新たに立地した邑治は、基本的に風水の談論を最大限重視した。そしてそうでない邑治においても、地形の改変や構造物の設置、絵図における事実の歪曲などを通じて、風水の談論を「後付け」しようとした。従って結果的に、風水はほぼ全ての邑治で共通して重要視されたアイデンティティといえよう。

韓国地方都市における「旧市街地」と「新市街地」
山元貴継(中部大学)

 韓国の地方都市で共通してみられやすい市街地の構造には,日本の地方都市のそれとは相違点がみられる。さらに韓国では,そうした独特の市街地の構造を反映して,「市内(シネ)」と「新市街地(シンシガチ)」といった地区の呼称が住民によって使い分けられていることが多い。そこで,本報告では忠清(チュンチョン)北道・清州(チョンジュ)市を取り上げ,韓国の地方都市での「市内」と「新市街地」との対比をめぐり,両者を形作った歴史的経緯と,結果としての景観の差違について報告した。
 清州市は,忠清北道の道庁(日本の県庁に相当)所在地であり,現在では人口約60万人と比較的規模の大きな地方都市である。そして清州市では,洞・街名(日本でいう町・丁名)でいえば「北門路1街」を中心とする,道庁のほか地下街も立地した1平方km程度の範囲が,一般的に「市内」と呼ばれる。それに対し,「市内」からわずか1km程度北側の,現在では市庁(市役所)や上党区庁(区役所)などが立地した一帯と,これとは別に「市内」から西に3~5kmほど離れた「司倉洞」から「佳景洞」にかけて展開した市街地との両者は,「新市街地」と呼ばれている。
 これら「市内」と「新市街地」とには,それぞれ異なる市街地形成の経緯がある。まず「市内」は,日本統治時代以前まで存在した城壁に囲まれた市街地である「邑城」と,その外側に若干展開していた市場とを含めた範囲,すなわち旧市街地にほぼ相当する。その後城壁は撤去され,中央を南北に貫く街路は直線化されて,「本町通り(現在の「北門路」)」と呼ばれる繁華街となった。そして,日本のような戦災や,それに伴う戦災復興を経験しなかったこともあり,ほぼその骨格を現在に残している。ただし街路が狭く,土地が細分化されていることもあってか,大型の建物やとくに高層建築物はあまりみられない。また,一帯には多くの日本式家屋の残存も確認することができる。
 一方で「新市街地」と呼ばれる地区は,文字通り比較的新しく市街地化した地区であり,かつ,日本統治時代当初は清州の行政区域外であった地域である。しかしながら,直交型の広幅街路で構成されたその街区自体は,日本統治時代の計画に沿うところが大きい。非法定の都市計画案『大清州』(1922年)や,周辺の農村地域の編入により行政域を拡大つつあった清州に関して「朝鮮市街地計画令」をもとに決定された計画(1939年)では,旧市街地の北側などに街路計画が設定されていた。こうした地区が,朝鮮戦争後の混乱が一段落した1960年代になってようやく本格的に市街地化した。そのため,「市内」の北側に広がる「新市街地」には,1960年代になって「市内」から移転してきた市庁や,放送局や企業の支店といった,その市街地化の時期を象徴した施設が目立って立地している。ただし,広幅の街路に対して,大規模な建物はさほどみられない。
 また,「市内」の西側の「新市街地」の方は,「朝鮮市街地計画令」による計画の多くを踏襲しつつ,1967年になってようやく制定された「清州市都市計画」に伴って,顕著に市街地化が進んだ地区である。とくに1990年代末に「市内」からバスターミナルが「佳景洞」に移転してきた影響は大きく,近年その周囲には集合住宅だけでなく,大型のショッピングセンターや高層モーテルが乱立するようになっている。広幅の街路に大型かつ高層建築物が立ち並ぶ景観をして,住民の中にはその一帯について,「新市街地」を越えた「新都市」との呼称を用いることも少なくない。
 ところで,こうした「市内」と「新市街地」の対比の中で,独特の存在となっているのが鉄道駅の存在である。かつて「市内」のすぐそばをかすめていた鉄道は,都市計画のたびに移設の対象となり,現在では市街地を遠く離れた西側に移設されてしまった。こうして現在の位置に「清州駅」が移転し30年近くが経過したが,駅前は市街地化がほとんど進んでおらず,住民はそうした農村的景観を指して「郊外」と呼ぶ。
 以上みてきたような関係は,韓国の他の地方都市においてもしばしば確認することができる。さらに「市内」と「新市街地」の位置関係は,必ずしも後者が前者を取り囲むような関係とはなっておらず,都市によっては両者が数kmほど離れて立地している場合さえみられる。そして,「市内」と「新市街地」とでは,それぞれ景観や立地施設にも違いがみられており,機能的にもかなり異なる地区となっている。また「新市街地」の近年の発展には,日本では市街地発達の大きな核となりやすい鉄道駅ではなく,バスターミナルの立地が大きく関わっていた。自然災害や戦災などによる市街地の更新が少なかったことに加えて,政治的な事情による都市発展時期の分散,交通機関の輸送分担におけるバス比重の大きさなど,日本とは異なる条件が積み重なって形成された韓国地方都市の市街地形成について,今後も複数以上の都市比較を行いながら検討を加えていきたい。

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[討論]
 今回は、アジア都市が初めて本研究部会のテーマになったことから、参加者の関心も極めて高く、活発な質疑応答がなされた。それらをまとめると次の通りであった(→Tは轟、→Yは山元からの回答)。
・ ①本日紹介していただいた邑治は客舎・東軒などの官衙施設を邑城が囲んだ例であった。慶尚南道の晋州では官衙施設と邑城が分離していたが、両者の関係をどのように考えるべきか? ②近世の邑治と現代の邑以上の都市的集落との関係は? →T:①晋州は、古代の邑城が南江の河岸に軍事施設として残り、近世の官衙施設がかつて山際にあったものが消失した例である。官衙施設を囲む邑城がない場合もあった。②現代の「邑」(町にあたる)は日本の植民地時代に設定されたもので、近世の邑治とは異なる。ただし、当然ながら連続する場合もある。
・清州市の高速道路、工業団地の完成年は? →Y:高速道路の完成は恐らく90年代で、この頃から工業団地の拡充もスピードアップしたようだ。工業団地の造成が開始されたのは60年代。
・古代、中世、近世、近代という時代区分はいつごろを指すのか? →Y:日本とは少し異なり1910年頃までを近世、植民地統治時代を近代と呼ぶこともある。→T:今日は日本での発表なので日本史で用いられる時代区分の表現をしたが、韓国では「高麗時代」のように朝鮮王朝の名前で時代を呼ぶのが普通。強いて古代や中世と呼ぶならば、10~14世紀の高麗時代が中世に該当し、それ以前は古代と呼べると思う。民族史観に立つ人々は、日本統治時代(日帝時代)を近代と呼称することを嫌う傾向にある。
・旧市街地の範囲は城壁に囲まれているところと考えていいのか? また、城壁が無い都市では、旧市街地と呼ばれる場所は存在しないのか? →Y:例えば蔚山の場合は、城壁内が狭く、それに隣接する部分も旧市街地と呼んでいる。日本や欧米列強の影響で開港したような都市では、城壁がなくても元来の集落があった部分を旧市街地と呼んでいる。
・旧市街地と新市街地は時期区分に依存するのか? また、空間的にみると両者の位置関係にパターンはあるのか? →Y:時期区分に依存するのは勿論だが、空間的には色々なケースがある。隣接する場合もあれば分離している場合もある。
・朝鮮市街地計画令をめぐって、まちづくりの制度をもう少し詳しく知りたい。また、この計画令に対する評価は? →Y:肯定的な評価としては、新市街地の発展を促したというものがある。一方、否定的な評価としては、日本人が将来において住み着きそうな場所だけを計画した、そして旧市街地の発展が阻害されたというものがある。ちなみに清州市の場合は、1943年の計画令が1967年まで「線引き」として残っていた。→T:令はあくまで令であり法律ではない。
・日本の地方都市では、特に郊外において自動車依存の都市発展がある。地方都市レベルで日韓比較をするとどうなるか? →Y:戦災で大きくクリアランスされなかった点が日本の地方都市の多くと異なっている。旧市街地の道が狭く自動車を使い難いのは日本の場合と類似しているが、一方で「郊外」という場合は韓国では日本よりもよりルーラル的なものである。新市街地では自動車の利用も多い。
・旧市街地での保存と復原はどういう時代背景を反映してできたものか? →Y:都市と農村では考え方が違う。保存や復原で行政事業をアピールしているようなところがある。価値の有無についての判断は未成熟だと思う。日帝時代のものは総体的に破壊対象となる。→T:いわゆる伝建地区は日本のそれを真似たようなものがある。90年代の不動産ブーム期には伝建地区の考え方が骨抜きとなった。95年以降は観光振興の目的で再び注目されている。最近では日帝時代のものも文化財登録され始めるケースが認められる。
・公州のような山城のある都市で見聞きした経験からすると、平野部の旧市街地の市場では中高年の客が多く、新市街地の居住者は自動車で大田のカルフールなどの大型店にも行くようだ。旧市街地と新市街地では歴然とした住み分けのようなものがあるのか? →T:新旧の市街地では生活の質が違う。一般に旧市街地は経済的には裕福でなく公共交通への依存度が高い。一方の新市街地では自家用車への依存度が高い。両者が同時に見られる状況は、日本における地方都市の過去と現在が同居しているような姿だと考える。→Y:旧市街地は中高年だけでなく、学生などが暮らす安アパートも多くある。若い人々は経済的に少し裕福になり始めると新市街地での居住を模索することが多いようだ。
 以上のように、隣国の都市をめぐる諸環境が明らかにされ、多くの出席者が刺激を受けた会合となった。現代韓国都市の構造は、欧米先進国の都市と比べると未知の部分が多い。とりわけ、日本人訪問者の多くが訪れるソウルの場合、地下鉄網が発達しているがゆえに、日本の都市との類似点がクローズアップされることはなかったであろうか。また、ツアーバスでの周遊でも都市構造に触れる機会はさほど多くないと推察される。今回の報告と討論で明らかにされた諸点は、地理学関係者はもちろんのこと「韓流ブーム」に沸く一般の人びとにとっても、隣国の歴史を内包するがゆえに知的欲求に応え得る。類似と相違が鮮やかな日韓の比較は、学界に限定されずに広く知られるべきで、それが両国の相互理解に資するのではなかろうか。
(進行:香川貴志、司会:伊藤 悟、記録:香川貴志、出席者:19名)


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2007.10.10追記
 本研究会での報告内容は、その後リバイスされ、『都市の景観地理:韓国編』(阿部和俊編、2007年10月、古今書院刊)に収録されています。

都市の景観地理
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2006.07.29 
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